イスラム全体を宗教・法・分派(スンニ派・シーア派)の観点で俯瞰して整理した本。多数のスンニ派に対し、イランのシーア派は密教的な立ち位置など全体感がよく分かります。1981年に書かれたとは思えないのです。
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政治と宗教と野球は揉め事のもとになるので、主観は除いてイスラームの歴史を備忘も込めて整理してみようと思います。
まず、ムハンマドが暮らしていた当時のメッカは、ビザンチン帝国(今のシリア周辺)・ササン朝ペルシア(今のイラク周辺)・南アラビアなどとの海上貿易の要であり、グローバル色豊かな町でした。また、ムハンマドがもともと商人であったこともあり、イスラム教は禁欲的な砂漠の宗教と言うより、信頼・誠実さ・約束の履行など商人の道義を反映した宗教なのです。
アッラーを唯一神とする一神教であり、多神教・偶像崇拝などを否定するため、結果として三位一体思想を持つキリスト教を強く否定します。今日の世界は西欧(キリスト教)とイスラーム諸国という構図でとらえられることも多いですが、争い・価値観の相違の根っこはこうゆうところにあるのかもしれません。聖典であるコーランとムハンマドの言行録であるハディースを重んじ、生活の隅々にまで宗教が入り込んでいます。イスラーム思想に基づいて法や倫理観が定められたという点では、聖俗分離を前提とするキリスト教・仏教社会と異なりますが、スタンスの違いであり、どちらが正しい・進歩的というものではありません。
”イスラム教原理主義”というのは、現在の世界を退廃的・世俗的と捉えた上で、ムハンマドの時代の古き良き時代への回帰を志向する集団なのです(だから原理主義)。(当時では当たり前だったのでしょうが、)現代の目線から見ると、女性への教育を禁じるなど女性蔑視的に見えてしまうため、なかなか我々には理解しがたいのですが、宗教の違いと考えるより、価値観の時間軸の違い(過去への回顧故に現代とマッチしない)と考えた方が真っ当だと思うのです。
元来、他宗教に対して排他的ではなく、一定の税金を払うことを前提にイスラームの庇護に入れることを認めていました。偏狭な排他主義ではイスラム教が広く普及することはなかったと思うので、周辺の土着信仰をうまく取り込みながら広がっていったというのが実態なのでしょう。ただし、神を信じない集団はイスラームの外側に位置づけられ、”剣(聖戦)かコーランか”となってしまいます。神を信じるという意味では共通しているものの、偶像崇拝・三位一体などを信条とするキリスト教徒は相いれることができず、十字軍につながっていったのです。
イスラームの秩序・法であるシャリーアを第一とするアラブのスンニ派に対し、イランのシーア派はコーランの内的解釈を追求しました。内的解釈と言うのは、コーラン・ハディースに書かれていることを基にその真意を読み解いていくことです。別にイスラム教に限ったことではなく、仏教でも釈迦の教えを様々に解釈した多種多様なお経ができたようなものです。スンニ派を顕教とすると、シーア派は密教にあたります。聖典を絶対視するスンニ派から見ると、聖典の”解釈”は神への冒涜・越権行為と映るため、同じイスラムであっても折り合いが悪く、しばしば争いに発展しました。こんな文脈で見ていくと、中東におけるイランの立ち位置や、イスラム圏から見た西欧(キリスト教圏)などがうっすら見えてくるような気がするのです。
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まず、ムハンマドが暮らしていた当時のメッカは、ビザンチン帝国(今のシリア周辺)・ササン朝ペルシア(今のイラク周辺)・南アラビアなどとの海上貿易の要であり、グローバル色豊かな町でした。また、ムハンマドがもともと商人であったこともあり、イスラム教は禁欲的な砂漠の宗教と言うより、信頼・誠実さ・約束の履行など商人の道義を反映した宗教なのです。
アッラーを唯一神とする一神教であり、多神教・偶像崇拝などを否定するため、結果として三位一体思想を持つキリスト教を強く否定します。今日の世界は西欧(キリスト教)とイスラーム諸国という構図でとらえられることも多いですが、争い・価値観の相違の根っこはこうゆうところにあるのかもしれません。聖典であるコーランとムハンマドの言行録であるハディースを重んじ、生活の隅々にまで宗教が入り込んでいます。イスラーム思想に基づいて法や倫理観が定められたという点では、聖俗分離を前提とするキリスト教・仏教社会と異なりますが、スタンスの違いであり、どちらが正しい・進歩的というものではありません。
”イスラム教原理主義”というのは、現在の世界を退廃的・世俗的と捉えた上で、ムハンマドの時代の古き良き時代への回帰を志向する集団なのです(だから原理主義)。(当時では当たり前だったのでしょうが、)現代の目線から見ると、女性への教育を禁じるなど女性蔑視的に見えてしまうため、なかなか我々には理解しがたいのですが、宗教の違いと考えるより、価値観の時間軸の違い(過去への回顧故に現代とマッチしない)と考えた方が真っ当だと思うのです。
元来、他宗教に対して排他的ではなく、一定の税金を払うことを前提にイスラームの庇護に入れることを認めていました。偏狭な排他主義ではイスラム教が広く普及することはなかったと思うので、周辺の土着信仰をうまく取り込みながら広がっていったというのが実態なのでしょう。ただし、神を信じない集団はイスラームの外側に位置づけられ、”剣(聖戦)かコーランか”となってしまいます。神を信じるという意味では共通しているものの、偶像崇拝・三位一体などを信条とするキリスト教徒は相いれることができず、十字軍につながっていったのです。
イスラームの秩序・法であるシャリーアを第一とするアラブのスンニ派に対し、イランのシーア派はコーランの内的解釈を追求しました。内的解釈と言うのは、コーラン・ハディースに書かれていることを基にその真意を読み解いていくことです。別にイスラム教に限ったことではなく、仏教でも釈迦の教えを様々に解釈した多種多様なお経ができたようなものです。スンニ派を顕教とすると、シーア派は密教にあたります。聖典を絶対視するスンニ派から見ると、聖典の”解釈”は神への冒涜・越権行為と映るため、同じイスラムであっても折り合いが悪く、しばしば争いに発展しました。こんな文脈で見ていくと、中東におけるイランの立ち位置や、イスラム圏から見た西欧(キリスト教圏)などがうっすら見えてくるような気がするのです。
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