昔から”応仁の乱は10年以上続いたのに、英雄や象徴的なエピソードを聞かないのはなぜだろう?”と疑問でした。乱暴に言うと、特定地域の人たちが天下布武などの特定の目的を持たずに無目的に小競り合いを続け、辞めるきっかけがなかったから、ということのようでした。現代社会でもこうゆうのあるよね。

当時の日本には、権威の象徴としての天皇家・実質的に統治をしていた武家の2大権力があり、天皇家においては皇位継承をめぐる内紛、武家においては将軍家の後継者争い・有力武士間での勢力争いなど、争いの種が尽きなかった。武士間での小競り合いが将軍家・畿内全体を巻き込んだ争いにまで発展するという泥沼感が応仁の乱の特徴です。
権力構造が複雑なのと、複雑な権力構造を巻き込んだ(天皇を担ぎ出すなど)ことにより長期化してしまったのです。応仁の乱で明らかになったのは天皇家・武家の権力が両立するのは困難であるということであり、以降の信長・秀吉・家康たちは朝廷の権威を利用しつつ、実質的な支配力を削ぎ落す方向で朝廷と相対していくのです。例えば、徳川幕府は征夷大将軍という位を朝廷からもらって幕府の正当性を担保しつつ、朝廷が意思決定できる範囲を定例的な行事に絞るなど、その勢力を限定することに力を注いだのです。
抑圧された朝廷が復権を果たしたのが明治維新であり、再び政治の舞台から追い出されたのが戦後日本と位置づけられ、長いスパンで見ると歴史は繰り返しているんだなぁというのが僕の歴史観なのです。

当時の日本には、権威の象徴としての天皇家・実質的に統治をしていた武家の2大権力があり、天皇家においては皇位継承をめぐる内紛、武家においては将軍家の後継者争い・有力武士間での勢力争いなど、争いの種が尽きなかった。武士間での小競り合いが将軍家・畿内全体を巻き込んだ争いにまで発展するという泥沼感が応仁の乱の特徴です。
権力構造が複雑なのと、複雑な権力構造を巻き込んだ(天皇を担ぎ出すなど)ことにより長期化してしまったのです。応仁の乱で明らかになったのは天皇家・武家の権力が両立するのは困難であるということであり、以降の信長・秀吉・家康たちは朝廷の権威を利用しつつ、実質的な支配力を削ぎ落す方向で朝廷と相対していくのです。例えば、徳川幕府は征夷大将軍という位を朝廷からもらって幕府の正当性を担保しつつ、朝廷が意思決定できる範囲を定例的な行事に絞るなど、その勢力を限定することに力を注いだのです。
抑圧された朝廷が復権を果たしたのが明治維新であり、再び政治の舞台から追い出されたのが戦後日本と位置づけられ、長いスパンで見ると歴史は繰り返しているんだなぁというのが僕の歴史観なのです。